フィルムで写真を撮ってみませんか。

「フィルムを使う写真に興味を持つ人を一人でも増やす」ことが目標の一個人の活動

カメラの話(コラム第三回-7)カメラと、私。(フィルムを要らないと感じた時)

 さて。

 私にとって、初めてのデジタル一眼レフカメラを入手したのは、2007年のことでした。購入したカメラは、ペンタックス製*istDでした。

*ist D|デジタル一眼レフカメラ | RICOH IMAGING

選定、購入に至ったポイントは以下のことからでした。

・発売当時、最小最軽量のAPS-Cサイズ素子を搭載する一眼レフカメラ

ペンタプリズム搭載でファインダーが大きく明るいこと

・前後電子ダイヤルでマニュアル露出がしやすいこと

・単三乾電池が使用できること

・すでに新機種が発売されており、標準ズームレンズとセットで10万円以下であったこと。

・兄の結婚式が間近であり、大量撮影することが見込まれたこと。

 

 このカメラは、610万画素でしたが、普段、A4サイズまでしか引き伸ばさない私にとって、十分な画質でした。 しかし、暗所での高感度撮影は、ISO800を境に急激にノイズが目立ち、まだまだカラーネガフィルムのほうが高画質でした。

 結局、購入動機の一つである「兄の結婚式」には、カラーネガフィルム(ISO400、800、1600)を、ニコンF4に詰めて撮影することとなりました。F4二台を両肩から下げると、気分はプロではあるものの、翌日は筋肉痛で全く動けないことになりました。

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 労働時間が長かったので、その場で結果が見れることやフィルムを現像に出し、また取りに行くという手間が省けること、ランニングコストは魅力出来ではありました。しかし、*istDでは、画質や臨場感では中判カメラに、高感度ではカラーネガフィルムに、彩度ではリバーサルフィルムに対してそれぞれまだ追いつけていない状況であったので、まだまだフィルムカメラを退役させるという気持ちにはなれませんでした。

 

 風向きが変わったのは、2009年11月30日でした。この日は、キヤノンEOS5DMark2の発売日の、翌日でした。

cweb.canon.jp

 この日、何気なくカメラ店に行ったところ、「在庫、1台のみ!」「これを逃すと、年内の納品はお約束できません!」なる、EOS5DMark2が。

 フルサイズデジタル一眼レフカメラとして、一般に手が届くお値段で初めて出してくれた、EOS5Dの2代目後継機種。欲しくないはずがありません。しかし、キヤノンオートフォーカスシリーズは購入したことがなく、レンズやアクセサリーを一からそろえる必要があります。となると、それなりの金額になります。

 店員さんに事情を聴くと、「予約者が、お金のめどがつかず、キャンセルになってしまったもの」ということで、製品の問題ではありません。そして、これを逃すといつ入荷となるかわからないこと、アダプターでニコンレンズが使えますよという、甘いささやき。

 店内をぐるりと3周ほど歩き、EOS5DMark2と、24-105F4L、シグマ50mmF1.4(初代)を、消費税込み42万円でお買い上げとなりました。これだけの金額のものをキャッシュで購入したのは初めてだったので、手が震えました。当時の給料2か月分でした。

 このカメラは、本当に素晴らしかったです。ISO3200でも、A4サイズであれば全く違和感がなく、強力なレンズ内手振れ補正のおかげでいつでもどこでも手持ちで撮れる、というくらいな安心感がありました。このカメラは、2016年まで我が家のデジタルカメラのトップ機種として、海に山に家族写真にと大活躍してくれました。

 ハンドリングの良さ、画質、高感度での撮影、彩度、いずれもフィルムカメラを凌駕するものでした。実際、EOS5DMark2を購入してから、フィルムカメラを使うことは、ほとんどなくなりました。

カメラの話(コラム第三回-6)カメラと、私。(高画質への憧れ)

 さて。

 前回であった「彼」は、中判カメラも所有しておりました。確か、出会った当時に使っていたのは、ペンタコンシックスという、東ドイツ製の6×6判一眼レフカメラと、広角レンズ、標準レンズ、望遠レンズのセットでした。

 初めて、6×6サイズのスライドフィルムを見たとき、「カールツアイスレンズ」というネームバリューは別としても、その澄んでいてかつ重みのある青空、突き抜けた紅葉の赤色、銀杏の黄色に感動しました。これが、中判サイズなのか、と。

 

 ほどなく、私も中判カメラを探すようになりました。ただ、身分は学生。スウェーデンハッセルブラッドやローライは、名前を出すことすらおこがましい。初めに選んだ中判カメラは、ペンタックス6×7の初期型でした。

 このカメラは、一眼レフカメラをそのまま拡大したような形をしており、手軽に扱える気がしました。そして、そのプライスが1万円であったことも魅力でした。ファインダーやレンズを購入するとそれなりの金額になりましたが、それでも、うれしくてたまらなかったです。

 

 しかし、残念ながら非力で手が小さい私には、このカメラは余るものでした。手放し、私に本当に合う中判カメラを探し、辿り着いたのは、ゼンザブロニカS2でした。

(あぁ、このカメラの記事を書くのを忘れておりました)

 機構は全く異なるものですが、ハッセルブラッドのような形をしており、その堂々とした風格たるや、それまで有していた一眼レフカメラの比ではありません。ウエストレベルファインダーであれば、でっかいガラスの塊を含むペンタプリズムを搭載せず、重量は最低限となります。弱点、欠点もありますが、それはまた今度の機会にしましょう。

 

 中判カメラの圧倒的な存在感や、その仕上がりに非常に満足したものの、135判カメラを手放し縮小することはありませんでした。確かに、中判カメラで撮影するときの充実感は135判カメラとは異なりますが、機動力や扱いやすさは、格段に135判カメラのほうが優位です。

 結局、併用し、現在まで至っておりますが、いかんせんフィルムが高くなってしまったこと、小さな子供がおりカメラ以外の荷物を多く運ぶ必要があることから、最近は中判カメラを持ち出すことはよほどの記念写真を程度になってしまいました。

カメラの話(コラム第三回-5)カメラと、私。(人との出会いがカメラとの出会い)

 さて。

 

 ニコンしか所有したことがなかった私が、ペンタックスLXを手にしてしまいましたが、さらに、カメラの世界に引きずり込まれることが起きました。

 

 当時、インターネットサイトで、個人様が各メーカーを称賛する(ような)内容のホームページを多数立ち上げつつある時期でございました。その中の掲示板(情報交換をする場ですね)で、意気投合した方が、実はすぐ近所に在住する、同い年の、同じ大学に通う学生であるというミラクルが起こりました。

 彼は、私にとって初めての、カメラを趣味とする友人となりました。彼は、彼の両親の影響で、ミノルタのマニュアルフォーカスカメラを主に使っていました。

 

 私は、ミノルタのマニュアルフォーカスカメラは、オートフォーカス化したときに切り捨てられた、取るに足らないものであると思っておりました。その根本は、ある有名初心者向けカメラ雑誌に、当時まだ販売されていた「ミノルタX-700」が、「このカメラ、まだ販売されていたの?」とか、「このカメラの存在価値がわからない」などと、酷評されていたことにあります。

 

 初めて触ったミノルタX-700は、時代遅れな1/1000秒シャッターしか搭載できていないうえに、プラスチックの外装によるチープさ満載で、その酷評通りと感じました。しかし、ファインダーを覗くと、なんという世界でしょうか、明るくすっきりとした、一日中見ていられる、その中だけで完結できる世界といえば良いのでしょうか、当時、まだ、LX2000用ナチュラルブライトマット発売前ではありましたが、そのわずか前に感動した、LXのファインダーをはるかに凌駕する新しい世界がございました。

 その数日後、X-700を購入したことは言うまでもありません。不人気というおまけのおかげて、交換レンズもまた、一本1万円以下という、ニコンペンタックスでは考えられない価格で、小躍りしました。

 

 しばらく愛用しておりましたが、マニュアル露出で設定したシャッタースピードがファインダー内でわからないこと、プログラムモードでは「パリッ」とした心地よいシャッター音が、私が多用するマニュアルモード、絞り優先モードでは「クシュッ」というなんとも頼りないシャッター音になることから、X-500へと買い替えし、現在まで所有しております。

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 21世紀になった後に、ミノルタのマニュアルフォーカスは終焉を迎えます。終焉の際に、あわてて、新品のマニュアルフォーカスレンズ、NMD24mmF2.8、NMD50mmF3.5マクロ、NMD135mmF2.8を購入し、その後もコツコツと中古レンズを買い集め、一部使わない望遠レンズを整理したものの、超広角17mmF4から135mmF2.8まで、一そろえ有しており、いつでも、最高のファインダーを堪能できる準備をしております。

 

 また、彼は、キヤノンNewF-1もまた愛用しておりました。私は、1980年代前半プロ機3種のうち、ニコンF3ペンタックスLXは有するものの、キヤノンNewF-1までは手が回らず、いまだ所有に至っていないことを、常々うらやましく思っております。ただ、キヤノンMFレンズは標準レンズ2本しか有していないため、さらにレンズを増やしてしまうのも・・・とか、4LR44(4SR44)電池は高いから、とか、様々理由をつけて、何とか踏ん張っております。

 昨年、仕事で母校に立ち寄った際に彼と一杯呑みましたが、その時、彼はライカなるレンジファインダー機を下げておりました。中央部分でしかピントが合わせられず、接写や超広角、望遠にも対応できないレンジファインダーという制限に、私が寛容になれる日は来るとは思えず、彼がずいぶんと大人に見えました。

 

 ちなみに、カメラに興味を持っていない我が配偶者には、私が急逝した際には、カメラ一式を彼に渡すように、彼には我が配偶者からカメラ一式が届いた折には適当に売りさばき、半額を配偶者にバックするようにとお願いしております。 そうしないと、大量のカメラを残されても、始末に困りますからね。

カメラの話(コラム第三回-4)カメラと、私。(異種との遭遇)

 さて。

 

 これまでの私は、ニコンのカメラしか所有したことがありませんでした。今回初めて、他のメーカーのカメラを所有することになるのです。2000年のことでした。

 そのカメラとは、リサイクルショップで出会いました。時々、不可思議な値付け(べらぼーに高いことが多い)をするそのお店で見つけたカメラは、ペンタックスLXでした。

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 ニコンF3と同世代で、2000年に(まだ)新品販売されていたのに、どうも日陰の存在のペンタックスLX。手に取ってみると、エアーダンパーの不良で、ミラーの上がり下がりが緩慢でしたが、その密度というか、凝縮感というか、高級感というか、F3とはまた違った魅力を感じ、即決購入。

 購入したものの、オーバーホールで7万円かかり、少し涙目になりました。

 

 ファインダー倍率は0.9倍で、0.8倍のニコンF3よりもずっと大きく見えるはずなのに、ファインダー像はどうも暗いためか見えづらく、F3のほうが稼働率は高かったのですが、LX2000という限定版に搭載された「ナチュラルブライトマット」を購入、装着すると、その見え方は一転、最高の域に達しました。LXが発売されてからの20年間、技術が進歩しており、それが一気に花開いた、と感じた瞬間でした。

 当時、すでに、ペンタックスのほとんどのマニュアルフォーカスレンズは販売終了となっており、また、流通するKマウントレンズはニコンレンズの同スペックのものと比べて少なくまた高価であったため、当時1000円で純正販売されていたマウントアダプター経由で使用する、1960~1970年代のSMCタクマーレンズを少しずつ買いそろえました。発色は淡く感じるのに、画面全体が真っ白くなる、フレアーの出現は抑えられ、しっとりとした描写にうっとりとなり、次から次へとレンズは増えていきました。

 

 今思うと、このカメラとの出会いが、私をより深くカメラの魅力の沼に引きずり込むきっかけだったようです。

カメラの話(コラム第三回-3)カメラと、私。(憧れへの到達)

 さて。

 

 無事、受験が終わり大学生になりました。入学式を終え、真っ先に写真部の部室へと行きました。

 私の通った大学は、本当かどうか定かではありませんが、昔、部室があったところが火事になったとのことで、各部の部室はいわゆるプレハブで、写真部はその一角を暗幕カーテンで囲った簡易な暗室でした。また、部室内に水道はなく、焼き付けた後の水洗は、屋外の共同の水道で行わなければならず、夜中にしか焼き付け作業ができないところでした。さらに、先輩方のタバコがすざまじく、耐えきれず、早々に通うことはなくなりました。

 しかし、部の紹介で、某カメラチェーン店で某P社の販売員としてのアルバイトの斡旋がありました。残念ながら、私はニコンしか使ったことがなく、P社に取り立てての興味や知識があったわけではなかったのですが、毎日曜日、時給1000円近くはそれなりに魅力的で、受けることとしました。2年生からは専門の講義が始まり、また、土日にも実験・実習が入ることも多々あるとことから、1年生の1年間のみのアルバイトとなりました。

 4月の初給料は、そのカメラ店で販売されていた、ニコンオートフォーカス50mmF1.4を購入し、ほぼ消えました。F90XSにお似合いとなる標準レンズが欲しかったのです。ズームレンズはF2.8通しの大きく重いレンズで、標準レンズと言いつつ、770gもありました。(といっても、今のレンズはその当時よりもはるかに大きく重くなっていますが。)

 アルバイトは、とにかく、買いに来る人、人、人が「EOS kissください!」と。そのお店には、P社のほか、M社からのバイトで入る写真部の先輩もいましたので、お互いに、P社(M社)になびかなかったらM社(P社)を、それにもなびかなかったらどれでも、といったこととしておりました。当時は、バンバンCMを流しており、ちょうど、New EOS kissからEOS kiss3に代替わりをしたころで、さらに初代EOS kissも流通在庫があり、高いと思う方は古いものを手に取っていました。

 M社は「ママの瞳の一眼レフ」α-Sweetでファミリー向けシェアを獲得しようとしておりましたが、EOS kiss3よりも5千円だか1万円だか高く、なかなか売れませんでした。P社は・・・暗黒期。MZ-10、MZ-50のファミリー機は、動きはもっさり、ファインダーの見えもいまいち、フォルムもパッとせず、純正レンズ付きは高価になり、当時は全然ダメダメだった、レンズメーカー製ダブルズームキットが他社と比べて最安値というだけで、私自身、何の魅力もないカメラをお客様に勧めるものの、たいして売れず・・・・さっぱりでした。売る意欲がなくなり、(コンパクトカメラはエスピオシリーズで頑張っていたものの)、P社一眼レフの売れ行きは悪く、支社から怒られたこともありました。もう少し、売れるものを作ってもらえませんか、来るお客さんみんな、EOS kissしか見ていないのですが、と、一アルバイターが不満を言い返してしまいました。

 

 1年間でアルバイトを終え、2年生のゴールデンウイークには、大阪へ行きました。目的は、あこがれのカメラです。生涯連れ添うカメラは、ニコンF4しかないと思っておりましたから。21世紀になる直前のことです。

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 小学生の時からの、憧れに到達できました。憧れのカメラは、すでに、生産終了となって久しく、新品の在庫はありませんでした。中古品のうち、ちょうど真ん中ランクのものを、消費税5%込みで、73,500円で購入。その足でニコンの大阪サービスへ行き、すぐにオーバーホールと外装の載せ替えを依頼しました。数週間後私の手元にお送り返され、これで、前の使っていた人の痕跡がなくなり、正真正銘、私のものとなりました。

 このカメラは、本当に優秀です。K型(マイクロスプリットタイプ)スクリーンを載せると、最高のマニュアル機相棒になるのみならず、中央一点ながらそのオートフォーカス性能は侮りがたく、また、巻き上げレバーでの巻き上げ操作がないことから安定してシャッターボタンに人差し指を置き続けることができ、瞬間に対応することもできます。

 欠点は唯一、重いこと。ノーマル状態でも電池抜きで1kg以上。充電池を使うためには、F4S、F4Eタイプが必要ですが、1.2kgを超えます。それに、単三乾電池6本。撮っている間は重さを感じることはありませんが、持ち運びの際と、翌日には猛烈に筋肉痛がやってきます。もっと体を鍛えれていれば、苦にはならなかったのでしょうが、優秀とはいえ、常用できるカメラではありませんでした。

 

 それでも、ニコンF4は我が家で唯一、同一機種で3台所有しているカメラです。

カメラの話(コラム第三回-2)カメラと、私。(オートフォーカスカメラが欲しい)

 さて。

 

 高校三年生の春でした。カメラ雑誌に、「写真甲子園」というものがあるとの記事がありました。私は化学部で、写真部にも属していなかったので、すぐに写真部の顧問のところに行き、「写真甲子園」に出たいから入部したいと申し出ました。その写真部の顧問は、その時が初めて話をした、確か、国語の教師でした。あまり良い感じはせず、写真甲子園に応募をしたいという志を持つ部員もいませんでした。

 しかし、写真甲子園は高校単位で応募をするもので、個人での応募は認められていませんでした。そこで、急遽、写真部とは別に「写真同好会」を他に2名の友人を集めて立ち上げました。その「写真同好会」で、「写真甲子園」に応募することとしたのです。顧問は、化学部の顧問にお願いしたところ、条件が一つ出されました。それは、「化学の要素を含むこと」でした。

 

 フィルム写真の原理は銀の酸化によるものです。行きついたのは、青写真(日光写真)の原理でした。自分たちで作った印画紙に、写真を焼き付けようとしたのです。

 化学部の試薬を使い、印画紙の製作はできました。幸い、化学部には暗室があり、そこにはいつのかわからない焼き付け機もありました。自作印画紙の素材は、液体がしみこみやすい画用紙が最も相性が良かったのですが、フィルムを露光する時間は数時間かかりました。何個も、焼き付けの球が切れました。そこで、ネガフィルムをOHPフィルムにコピーで焼き付け、さらに拡大し、それを青写真印画紙へ張り付け、日向へ数分放置する、という乱暴な手法を取らざるを得ませんでした。

 その結果、できた写真はぼんやりとした、不鮮明なものでした。

 

 その作業と並行して、写真同好会を写真部とは別途立ち上げたことをどこからか聞きつけた、ラグビー部の顧問が、ラグビー部の客員マネージャーとして、部の写真を撮らないかと誘ってくれました。その年の写真甲子園の課題は「青春」。ラグビーのルールも知らないまま、二つ返事で引き受けました。

 カメラは、ニコンF3。持っているレンズは、標準レンズの50mmF1.4と35-70mmのズームレンズ。さらには、選手の行動パターンもわからない。コートの外から撮ると、人の表情どころか、顔の判別すら難しい状況でした。動く人の写真を撮るためには、オートフォーカスカメラが必要だ。それまでのお年玉や小遣いの残りをかき集めました。

 当初、候補に挙がったのはキヤノンEOS5(もちろんデジタルではない)でした。5つのオートフォーカスポイントがあり、それも、目で見たところにピントがあるという、当時の高校生にとってはメチャ先進的に思えるものでした。しかも、新品で7万円くらいで買え、手が届く範囲でした。しかし、レンズの共用をするほうが良いと、父や兄から、ニコンを選ぶこととなりました。ちょうどニコンF5が発売されたところではあったものの、本体定価32万5千円は天文学的な金額であり、F90XSとF70Dで悩んだ結果、無理をしてF90XSを購入しました。レンズは、トキナー製28-70mmF2.8と80-200mmF2.8、さらに×2のテレコンバーターを購入しました。た。

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 実際ラグビー部の練習や練習試合に付き合ったのは2か月程度でした。必死で、撮影しました。一緒に写真同好会を立ち上げた友人2名は、写真には全く無関心でした。本戦に進めれば北海道に行ける、ということにのみ、魅力を感じていたようで、写真を撮るのは私のみでした。

 F90XSは、ワイドフォーカスエリアで、ある程度の範囲にピントを合わせることはできたものの、当然ながらフルオートで写真を撮れるものではありませんでした。秒間4コマ以上の連写が可能とはいえ、36枚撮りフィルムを10秒足らずで撮りきる勇気はありませんでした。動きがわからないスポーツを、一瞬必殺のシャッターで切り取る。どだい、無理な話でした。オートフォーカスという機能は、私の腕の悪さやスポーツの知識不足をカバーできるだけのものではなかったのです。

 自作印画紙の高感度化は困難を極め、結局は通常の写真焼き付けで応募することを顧問も許してくれました。どうにか組み写真を作成、選定し、応募しました。結果は、予選敗退でした。

 

 半年あまり先に高校を卒業し、大学へ進学しました。大学に進学してからは、F3が再びメインのカメラとなりました。F90XSは、動きものを撮る時に持ち出してはいたものの、ほとんど持ち出す機会はなくなりました。それでも、このカメラは、私の高校時代の一瞬を輝かせてくれた名機として、今も手元にあります。

カメラの話(コラム第三回-1)カメラと、私。(カメラとの出会い)

 さて。熱が冷めないうちに打ちましょうか。

 

 私がカメラというものを身近に感じたきっかけは、小学生のころ。当時、天体写真に興味を持っていた、父と兄が、星夜写真を撮るために、隣町のカメラ屋さんで、一台のカメラを買ってきました。当時「天文ガイド」という雑誌の個人が写真を投稿し、優秀な作品が掲載されるページの中で最も多く名前が出ていたカメラでした。それが、ニコンF3HPでした。

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 ちょうどその年は、ニコンF4が発売された年でもあり、その時に、カメラ店の天井から下がっていたF4のポスターの格好良さにしびれた記憶があります。父に、どうして新型のF4が発売されたにもかかわらず、旧型のF3HPを購入するのかと尋ねた記憶もあります。その時の回答は、F4は重すぎて、天体望遠鏡を痛めるから、というような内容だったかと思いますが、まぁ、そもそも、F4は単三電池を使用し、F3と比べてもはるかに多くの電流を必要としますから、星夜写真を撮るのには根本的に向いていないカメラですよね。

 

 星夜写真であれば電池を必要としないNew FM2の方が適当であったのではないかと思うこともありますが、でっかい反射式望遠鏡を使用する都合上、ミラーアップが容易に行えること、透過スクリーンが用意されていたことから、F3にしたのかもしれません。たぶん、天体雑誌で入選がいっぱいあるカメラを買えば、そういう写真が撮れるだろう、という短絡的なものではないかと思いますが・・・一応、透過スクリーンも購入しておりました。

 1台目のF3購入の半年か一年か後に、父は中古のF3HPを見つけ、二台目として購入してきました(星夜写真は長時間露光をすることがあるので、撮影効率を高めるために2台、3台使うことも不思議ではないことである)。その個体が、今、私の手元にあるものです。このカメラは初期型で、ニコンF3にはよくあるプリズム内の銀蒸着の劣化が発生してしまい、ノーマルファインダーに交換しました。そのころ私は大学生で、HPファインダーよりも1万円安いノーマルファインダーに価格で引かれて購入しましたが、スタイルやファインダー倍率がやや高い(HPファインダーは0.75倍、ノーマルファインダーは0.8倍)ことから、結果的には良かったのではないかと今では思っております。

 星夜写真自体には、私自身が深く興味を持つことはなく今に至っております。フィルム1本が丸々ピンボケとか、微妙な空気の揺らぎで鮮明にならないとか、日周運動を撮影するのに途中で雲が横切って星の線が切れてしまったとか、明け方まで起きてなきゃいけないので眠いとか、私にとってはあまり魅力的なことではなかったようです。いまだに兄は星空を追いかけているので、きっと、魅力を感じる人には感じるものなのでしょうが、それよりも、私はカメラに興味を持つようになりました。

 このカメラを勝手に持ち出すようになったのは高校生のころ。何のたわいもない通学路の風景や、地方祭を撮影しておりました。自転車通学の身には結構重かったとか、フィルムはコニカのネガフィルム「JX400」が愛用品で、5本パック1700円で売られていたとか、でも、なんか色が赤っぽくなって、変な発色だったなとか、現像は同時プリント込みで1300円くらいしていたので、昼食代でもらっていた500円を、パンミミかじって節約したとか、その程度の記憶です。ただ、高校3年生の時に、同級生のうちの歴史研究クラブのメンバーが、高校近くの紙染色工場が取り壊される前に、その周辺を散策しようというイベントを企画し、その時にカメラマンとして抜擢されました。高校は3年間クラス替えのない特殊クラスでしたが、修学旅行のほかに皆がそろって写真を撮る機会はなかったこと、進学校で高校卒業後は散り散りとなり卒業来会っていない同級生がたくさんいること、また、クラスのメンバーで早世してしまった者も複数人いることから、この時のネガは私の宝物です。

 そんな高校時代を過ごしていたころ、たまたま見かけた雑誌のある記事で、次のステージへ進むこととなるのです。